「世界の切手と海外写真」店長ブログ!

「Kunioの世界の切手紹介と海外写真集」の店長です。切手収集や海外旅行等雑多な趣味・コレクション・写真を通じて日々の出来事や感じた事を書き記してます。神奈川出身、三重県・名張市在住。
歴史探訪|明日香にあったピラミッド型の古墳
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都塚古墳(6世紀後半)を調査中の同村教育委員会と関西大は2014年8月13日、墳丘が階段状に垂直に石積みされた“階段ピラミッド”のような外観だったことが分かったと発表した。


都塚古墳


都塚古墳の説明版


墳丘の周囲を巡る幅1〜1.5メートルの周濠(しゅうごう)跡も見つかった。同古墳は全長約12メートルの横穴式石室を備え、江戸時代には既に入り口が開いて、長さ2.2メートルの家形石棺を納めてあることが知られていた。一方、墳丘の詳しい形や規模はこれまで不明だった。


都塚古墳 石室入口


都塚古墳 石棺


2014年8月15日の調査の様子 先日報道された事で見学者が多いです。ただ作業している人はいても資料は無く改めて見学会があると思います。


都塚古墳 調査作業風景


都塚古墳 調査作業風景


都塚古墳は1辺約41〜42メートルの大型方墳で、階段状に土を盛って高さ4.5メートル以上の墳丘を築いたと分かった。段築は5段以上あったとみられ、1段の高さは30〜60センチ。段の部分に拳大から人頭大の石を垂直に積み上げていた。
中国東北部から朝鮮半島北部を支配した高句麗(こうくり)の古墳と類似した特異な形態や規模の大きさなどから、大きな権勢を誇った大豪族・蘇我(そが)氏の礎を築いた稲目(いなめ、?〜570)の墓との説が出ている


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■「歴史探訪|明日香にあったピラミッド型の古墳」等
 関連ページは、  「大和の風景|奈良 明日香の写真と切手 No.2」


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歴史探訪|万葉集の史跡である聖武天皇社 四日市
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 聖武天皇社(しょうむ てんのうしゃ)は、三重県四日市市の所在地が松原町の神社。
 松原地区の氏子大社であり、氏神として聖武天皇を祀っている。松原の石取祭が行われていて、鎌倉時代に創建された神社である。
 聖武天皇社の神紋は16弁八重菊。 万葉集の史跡である聖武天皇社は松原村の旧家の田村家が明治時代まで氏子として神社を守ってきた。聖武天皇を祀る神社であり、聖武天皇ゆかりの史跡で、天皇関係の宗教施設として価値がある珍しい神社である。
 毎年7月に正式名が聖武天皇社大祭である松原の石取祭が開催されている。


聖武天皇社 四日市


境内神社には蛇の白玉龍の神様を祀る商売繁盛の白玉龍神社と、力石という石が本殿の右側にある。
朝明郡松原村(現在の四日市市松原町)の力持ちの若者等が、ことあるごとに体力を試そうとして競いあいこの力石を持ち上げた。重さは不明だが、村の力自慢の若者が大勢挑んだ。


聖武天皇社 四日市


「万葉集」の聖武天皇(701-756)の歌碑があり、郷土が生んだ詩人である佐々木信綱の書による石碑が1955年(昭和30年)に築造されて 「妹(いも)に恋ひ 吾(あが)の松原みわたせば 潮干の潟(かた)に鶴(たづ)鳴き渡る」という万葉集にも掲載されている歌が刻まれている。


聖武天皇社 四日市


旧家田村家の民話では、聖武天皇が伊勢行幸の際に松原村の旧東海道を通ると一陣の風が吹き、聖武天皇の笠が池に落ちたところに、タイミング良く西富田村付近の小川で洗濯をしていた田村家の娘がその笠を拾って差し上げたため、これが縁となって聖武天皇は娘の実家の田村家に宿をとられたという。
続日本書紀の記述で松原の文献が記述されている。聖武天皇は、奈良時代の天平12年(740年)に伊勢国に行幸をした。


聖武天皇社 四日市


聖武天皇 (しょうむてんのう、 大宝元〜天平勝宝八(701-756))は、文武天皇の皇子。母は藤原不比等の娘宮子。光明皇后との間に孝謙天皇・基親王(夭折)をもうけ、夫人県犬養広刀自との間に井上内親王・安積親王・不破内親王をもうけた(男子はいずれも夭折した)。佐保山陵に葬られる。古代律令制の成熟期に君臨した天皇として絶大な権威を有し、死後も偉大な聖王として官人・僧侶・民衆の崇敬を集めた。


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■「歴史探訪|万葉集の史跡である聖武天皇社 四日市」の詳細は、
  「名張・万葉の会|三重県四日市市 壬申の乱の足跡を訪ねて 久留倍官衙遺跡・・」


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歴史探訪|日本最初の女帝・推古天皇を祀る推古天皇社 奈良市大安寺
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 先日、奈良の南都七大寺の1つ大安寺を訪問したときに南門の近くに推古天皇社と呼ばれる神社を見つけました。

■推古天皇(すいこてんのう、欽明天皇15年(554年) - 推古天皇36年3月7日(628年4月15日))『日本書紀』推古紀に「幼曰 額田部皇女 姿色端麗 進止軌制 年十八歳 立爲渟中倉太玉敷天皇之皇后 卅四歳、渟中倉太珠敷天皇崩」とあり、「姿色(みかお)端麗(きらきら)しく」、挙措動作は乱れなくととのって(進止軌制)おり、18歳、渟中倉太玉敷天皇(第30代敏達天皇)皇后となり、34歳に渟中倉太玉敷天皇が崩御した。

公正な女帝の治世のもと聖徳太子はその才能を十分に発揮し、冠位十二階(推古天皇11年(603年))・十七条憲法(同12年(604年))を次々に制定して、法令・組織の整備を進めた。推古天皇15年(607年)、小野妹子を隋に派遣した。


『大安寺伽藍絵図』に南大門から中門の間に、東に推古天皇・西に聖徳太子を祀る社殿があったそうです。
 大安寺の守護神とされていたようですが、松永久秀の兵火によって焼失したそうです。
 今、この神社は大安寺小学校の東南東約200m、芝池西に鎮座しています。入口には社号標と木製鳥居が建ち、神橋を渡って参道が奥へと続きます。 現在の社殿は明治9年の再建。


推古天皇社 奈良市大安寺


鳥居の脇に、旧地にあった万延元年(1860)の推古天皇社と刻んだ方柱形の献灯籠が立っています。傍らの小堂には、健脚を願う草履やわらじが供えられ「大日さん」として信仰されているそうです。

祭神;豊御食炊屋姫尊(とよみけかしきやひめのみこと、推古天皇、読み方は『日本書紀』による。『古事記』では豊御食炊屋比売命という)


推古天皇社 奈良市大安寺


案内文から「推古天皇は、第29代欽明天皇の皇女にて18歳にて第30代敏達天皇の皇后となられた。皇后は眉目秀麗な美人だったと伝えられている。
第32代崇俊天皇崩御の後、皇位を巡って、さまざまの動きがあって、日本における最初の女帝となられ、聡明な聖徳太子に摂政を委ねられて、政治は国家意識を昂揚し理想社会を求める事であった。「外交の刷新・仏教に依て日本民族の思想と生活を改める事等」、従って日本の歴史の中でも輝かしい時代であった。」(大安寺町評議員会)


推古天皇社 奈良市大安寺


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■「歴史探訪|日本最初の女帝・推古天皇を祀る推古天皇社 奈良市大安寺」の詳細は、
  「名張・万葉の会|平城京南の道 奈良・大安寺と東市、西市 他を訪ねて ・・」


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名張ノスタルジー|第一次天正伊賀の乱 百地氏の城跡(伊賀)
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伊賀市・友生村喰代(ほおじろ)郷の百地丹波守の居城跡 縁切り祈願の式部塚(別名「樒塚」)

百地家累代の墓所(青曇禅寺)

百地丹波守城址の丸形池

百地丹波守城址の本丸

百地丹波守城址の石碑

百地丹波守城址の石碑

百地丹波守城址・南虎口

百地丹波守城址・北東虎口

百地丹波守城址(青曇禅寺)

築城年代は定かではないが、藤林氏や服部氏と共に伊賀の上忍だった百地氏によって居城として築かれたことから始まる。その後、天正9年(1581年)に織田軍が伊賀へ侵攻して来ると、百地氏を始めとした伊賀の国人衆は柏原城を中心に籠城して抵抗したが、奮戦空しく落城した。

百地丹波守城址の遠景

百地丹波守城址・北東虎口の入口 百地丹波守城址

百地丹波守城址の由来

京都女官式部塚の入口

京都女官式部塚(別名「樒塚」)

式部塚の多数の鋏やカミソリ

井戸の跡に建つ式部塚(別名「樒塚」)は、縁切り祈願のお参りが今もあります。多数の鋏やカミソリが今も供えられいる。浮気封じ。

■喰代の百地砦に伝わる「式部塚(しきみ塚)」伝説によると、百地丹波が北面の武士として禁中の任に就いていた時、式部という女官と懇ろの仲となったのであるが、丹波が任を解かれ伊賀へと帰国すると、後から式部が追い掛けてきた。丹波とは行き違いになり、本妻のいる喰代砦へ先に着いてしまった為、本妻が式部を殺して井戸に投げ込んでしまったということである。

■百地は、南伊賀を支配し、伊賀喰代・名張竜口・大和竜口に砦を持っていたという。
■第一次天正伊賀の乱では、伊賀忍者の百地丹波守(百地三太夫の叔父)や石川五右衛門が活躍したという伝説が残る。 のちに大盗賊となり京都所司代の前田玄以(げんい)に捕らえられて釜茹での極刑に処せられる石川五右衛門は、百地丹波守の弟子と言われ、忍者の修行の後、百地丹波守の妻と密通したうえ、妾を殺害して逃亡したと伝わる。
■石川五右衛門(いしかわ ごえもん、生年不詳 - 文禄3年8月24日(1594年10月8日))は、安土桃山時代に出没した盗賊。文禄3年に豊臣秀吉所持の千鳥の香炉を盗もうとして捕らえられ、京都三条河原で一子と共に煎り殺された。 出生地は伊賀国・遠江国(現浜松市)・河内国・丹後国などの諸説があり、伊賀流忍者の抜け忍で百地丹波の弟子という説もある。 従来その実在が疑問視されていたが、近年発見されたイエズス会の宣教師の日記からその存在が確定した。 切手や歌舞伎の金爛褞袍(きんらんどてら)に大百日鬘(だいひゃくにちかつら)という五右衛門の出で立ちは広く普及し、これが今日では一般的な五右衛門像となっているが、実際の南禅寺山門は五右衛門の死後30年以上経ったの寛永5年(1628年)の建築である。

二世 実川延若(楼門五三桐
の石川五右衛門
) 歌舞伎
石川五右衛門:二世 実川延若(楼門五三桐の石川五右衛門


内容は作成に当たりウィキペディアと「伊賀惣国一揆と天正伊賀の乱」さんを参考にさせていただいております。


■「名張ノスタルジー|第一次天正伊賀の乱 百地氏の城跡(伊賀)」 の詳細は、 「名張ノスタルジー|天正伊賀の乱について  第一次天正伊賀の乱」


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名張ノスタルジー|第一次天正伊賀の乱 下山甲斐の比奈知城跡
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名張ノスタルジー|天正伊賀の乱・第一次天正伊賀の乱です。
 織田信長の次男・織田 信雄は、元亀元年(1570年)、父信長の北畠氏攻略戦の和睦条件として、北畠具房の養嗣子となって北畠具教の娘を娶った。元亀3年(1572年)に元服して北畠具豊と称し、天正3年(1575年)に家督を相続する。後に信意に改名。翌天正4年(1576年)には、北畠一門を抹殺している。
 織田信雄は、功名を急ぎ、天正6年(1578年)、国境にあった丸山城(伊賀市下神戸)を修築し、侵略の拠点にしようとした。
 これに驚いた伊賀衆は、同年10月25日に総攻撃を開始した。これにより昼過ぎには残存兵力を糾合し伊勢国に敗走した。 復讐の念に燃える信雄は、天正7年(1579年)、信長に無断での伊賀侵攻戦に大敗し、信長から叱責された事件が、第一次天正伊賀の乱です。

第一次天正伊賀の乱(1978-9年)

■戦国期の伊賀では、北東部東湯舟郷に藤林長門守率いる藤林氏が、南部大和との国境城山(現在の名張市竜口)と東部友生村喰代(ほおじろ)郷に百地丹波守率いる百地氏が、そして中央部予野(現在の伊賀市中心部)に千賀地服部宗家がそれぞれ城塞や砦を構えていた。
■第一次天正伊賀の乱の発端は、伊賀忍者の1人・下山甲斐(比奈知城、名張市)は仲間を裏切り織田信長の次男・信雄(当時は伊勢国の北畠氏の娘を妻とし、伊勢国司)に伊賀の団結力が衰えだしたことを報告し侵略を進言した。 下山甲斐は、天正伊賀の乱の最後となった柏原城主・瀧野の娘を妻としていた。 皮肉と言うか凄く不思議な縁ですね。下山の言葉に乗った信雄は直ちに国境にあった丸山城を修築し、侵略の拠点とすることにした。だが信雄の企みはいち早く伊賀の人々の耳に届き、放たれた忍者達の奇襲によって信雄は大敗を喫してしまう。

伊賀流忍者

忍者 伊賀 名張

下山甲斐の比奈知城跡(名張)

発端となった下山甲斐の比奈知城跡(名張、民家の後ろの山)

■下山の言葉に乗った信雄は、天正6年(1578年)、直ちに国境にあった丸山城(伊賀市下神戸)を修築し、侵略の拠点とすることにした。 だがこれに驚いた伊賀郷士11名が集まり、「完成までに攻撃すべし」と集議一決した。 丸山城周辺の神戸、上林、比土、才良、郡村、沖、市部、猪田、依那具、四十九、比自岐衆が集結し、同年10月25日に総攻撃を開始した。これにより昼過ぎには残存兵力を糾合し伊勢国に敗走した。 翌天正7年(1579年)9月16日、北畠信雄は8000兵を率いて伊賀国に3方から侵攻したが、伊賀郷士衆は各地で抗戦し北畠信雄軍を伊賀国から敗走させた。 これが第一次伊賀の乱である。 京にいた織田信長は、「言語道断曲事の次第に候」(信長公記)と激怒した。
 当時、信長は御館の乱(*1)や石山本願寺に注視していた時期。 天正8年(1580年 3月5日)勅命により、石山本願寺(現在の大阪城)との講和が成立。



■「名張ノスタルジー|第一次天正伊賀の乱 下山甲斐の比奈知城跡」 の詳細は、 「名張ノスタルジー|天正伊賀の乱について  第一次天正伊賀の乱」


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歴史|能楽大成者・観阿弥は伊賀忍者だった?
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 店長が住んでいる三重県名張市は、能と忍者で有名です。 昔、織田信長が悲惨な殺戮行為をした天正伊賀の乱を調べていると色んな面白いことが分かりました。

 手始めは皆さんよくご存知の観阿弥の事。
 能楽大成者・観阿弥は妻の出生地である名張市小波田で初めて猿楽座(後の観世座)を建てました。

 下は名張市役所の観阿弥の銅像と小波田の創座の地の石碑

観阿弥  観阿弥 

小波田の創座の地に建てられた能舞台
観阿弥


 観阿弥の息子の世阿弥の『世子六十以後申楽談儀』には、観阿弥の祖父が伊賀の服部氏一族から宇陀の中家に養子にいき、その人が京都の女性と関係して生まれた子が観阿弥の父であるという記述がある。
 この観阿弥の父は、大和の山田猿楽の一座に養子にいき、観阿弥の母は同じく大和猿楽の一座、外山の座の出身であるという。
 なおこの記述によると、観阿弥の長兄は宝生大夫、次兄は生市とあり、いずれも大和猿楽に関係していたと思われる。

  また曾孫に当たる観世小次郎信光の肖像に書かれた讃には、伊賀の服部氏一族の武士であった観阿弥の父が、あるとき春日神社より「子を楽人として神に仕えさせよ」との神託を受け、三男である観阿弥に結崎氏を名乗らせ春日神社に捧げた、という伝説的なエピソードが記されている。

 昭和37年(1962年)、伊賀上野の旧家より「上嶋家文書(江戸時代末期の写本)」が発見された。これによると、伊賀国の服部氏族・上嶋元成の三男が申楽(能)役者・観阿弥で、母は楠木正成の姉妹だったという。すなわち、観阿弥は楠木正成の甥だったことになる。
 根拠は特にないが、偽系図などと呼ばれている。

 観阿弥の息子・世阿弥も「先祖は服部氏」と自称していたそうです。能の大家は、伊賀忍者の末裔か?

 以上ですが、考えるに渡来人の秦氏が軽業や芸能に長けており、伊賀の人々はその子孫である事や平家とも縁があり忍者や芸能に秀でた人間が出たようです。 確かに伊賀地域(名張市と伊賀市)は南北朝時代の南朝の古城が多数有った所として知られていますが、楠正成と観阿弥を結びつけるのは飛躍のし過ぎかも知れない。

■「歴史|能楽大成者・観阿弥は伊賀忍者だった?」 の詳細は、 「天正伊賀の乱 エピローグ(第三次天正伊賀の乱、忍者の行方)」

■今、奈良は「平城遷都1300年」の真っ最中。(写真と切手)


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特集|平城遷都1300年 日本最古の道・山の辺の道(天理市〜桜井市) 大神神社
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  大神神社(おおみわじんじゃ)は奈良県桜井市にある神社である。式内社(名神大)、大和国一宮で中世には二十二社の中七社のひとつとされた。 今では凄く強力なパースポットです。 山の辺の道の南の出発点です。
 旧社格は官幣大社(現・別表神社)。三輪明神、三輪神社とも呼ばれる。大物主大神(おおものぬしのおおかみ)を祀る。日本神話に記される創建の由諸や大和朝廷創始から存在する理由などから「日本最古の神社」と称されている。
 行ったのは過去何回も行っていますが写真は2010年6月の5日で暑い日でした。 ですが、溢れるばかりの人出でした。 信仰やご利益で大きな影響力がある神社と体感しました。

大神神社の大鳥居

大神神社


 日本国内で最も古い神社のうちの1つであると考えられている。三輪山そのものを神体(神体山)として成立した神社であり、今日でも本殿をもたず、拝殿から三輪山自体を神体として仰ぎ見る古神道(原始神道)の形態を残している。 昔、訪れた時は山に登る際、道端の両側に生卵が沢山供えられていた思いがあります。 今も変わらずと思います。

大神神社の拝殿

大神神社



 吊るし灯篭は、桐の御紋、賽銭箱には菊の御紋が入っています。
 崇神天皇7年(紀元前91年)に天皇が物部連の祖伊香色雄(いかがしこを)に命じ、三輪氏の祖である大田田根子を祭祀主として大物主神を祀らせたのが始まりとされる。
 日本書紀には大物主神が倭迹迹日百襲媛命に神懸かりして、また臣下の夢に現れてした神託に従い大物主神の子である大田田根子に大物主神を祀らせたとある。

       大神神社の「巳の神杉(みのかみすぎ)」

大神神社


 「巳の神杉(みのかみすぎ)」は、江戸時代には、「雨降杉」とあり、雨乞いの時に里の人々が集まり、この杉にお詣りをしました。いつの時代からか、杉の根本に、巳(み)さん(=蛇)が棲んでいるところから、「巳の神杉」と称せられるようになり、巳さんの好物とされる卵が、酒とともにお供えされています。
 蛇は、古来より三輪の神の化身として意識されており、『日本書紀』の崇神天皇10年9月条に、「小蛇(こおろち)」と記され、『同紀』雄略天皇7年7月条には、三輪山に登って捉えて来たのが「大蛇(おろち)」であったと伝えています。
 いずれも、三輪の神がその原初的形態として、蛇神であると信じられていたことを示していると考えられます。
 これは、古代の人たちが、三輪山は千古鉞(おの)を入れず鬱蒼たる森林として、何がひそんでいるかわからない不気味さを覚え、そのお山から流れ出る水により、種々の農作物を作り、日々の暮らしをたて、山に立ち昇る霧や雲に神意を感得して、山内に棲む蛇を直感したものであったのでしょう。 三輪の神の原初の形とされる蛇は、水神であり、雷神ともなり、農業神、五穀豊穣の神となり、やがては国の成立とともに、国家神的な神に至ったと考えることができます。



■平城遷都1300年 日本最古の道・山の辺の道(天理市〜桜井市) 大神神社 の詳細は、 「平城遷都1300年の切手と写真(天理市〜桜井市) 日本最古の道 山の辺の道 

■今、奈良は「平城遷都1300年」の真っ最中。(写真と切手)


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特集|平城遷都1300年 日本最古の道・山の辺の道(天理市〜桜井市) 大和神社
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 大和神社(おおやまとじんじゃ)は、奈良県天理市にある神社である。式内社(名神大社)、十六社・二十二社の一社で、旧社格は官幣大社。 旧称朝和之宮(あさわのみや)です。
 大和神社は一の鳥居から数百mの参道が続きます。 人気は少ないものの、大和の神道の発祥を感じさせる佇まいです。
 日本書紀によれば、元々倭(日本)大国魂神は天照大神とともに大殿に祀られていたが、世の中が乱れ謀反を起こすなどするのは、両神の勢い畏れ、崇神天皇6年(紀元前92年)、倭大国魂神を皇女渟名城入姫を斎主として祀らせた。
 しかし、淳名城入姫は髪が落ち体は痩せて祭祀を続けることができなくなった。崇神天皇7年(紀元前91年)、倭迹迹日百襲媛命が夢で「市磯長尾市をもって、倭大国魂神を祭る主とせば、必ず天下太平ぎなむ」との神託を受けた。 また同年11月にも同じようなことが起こり、大倭直の祖・市磯長尾市(いちしのながおち)を祭主として、神地が定められ鎮座・創建された。


大和神社の境内と二の鳥居

大和神社


大和神社(おおやまとじんじゃ)の拝殿

大和神社


 中殿に日本大国魂大神、左殿に八千戈大神、右殿に御年大神を祀る。朱鳥6年(692年)、持統天皇は藤原京の造営にあたって、伊勢・住吉・紀伊の神とともに当社に奉幣し伺いを立てた。

 朱鳥6年(692年)、持統天皇は藤原京の造営にあたって、伊勢・住吉・紀伊の神とともに当社に奉幣し伺いを立てた。寛平9年(897年)、最高位である正一位の神階が授けられた。延喜式神名帳には「大和国山辺郡 大和坐大国魂神社 三座」と記載され、名神大社に列し、月次・相嘗・新嘗の幣帛に預ると記されている。後に十六社・二十二社の一社ともなった。

 寛平9年(897年)、最高位である正一位の神階が授けられた。延喜式神名帳には「大和国山辺郡 大和坐大国魂神社 三座」と記載され、名神大社に列し、月次・相嘗・新嘗の幣帛に預ると記されている。 戦艦大和には、同名であることから当社の祭神の分霊が艦内で祀られていた。戦艦大和は昭和20年(1945年)に沖縄沖で沈没したが、そのときに亡くなった2717名の英霊が末社・祖霊社に合祀されている。


大和神社


 境内にある増御子神社は、猿田彦神、天鈿女命(あまのうすめ)、神武天皇の功臣、椎根津彦の子孫市磯長尾市氏命を祀る。例祭 4月1日 知恵の神、受験・就職・産業開発を祈る。


■平城遷都1300年 日本最古の道・山の辺の道(天理市〜桜井市) 大和神社 の詳細は、 「平城遷都1300年の切手と写真(天理市〜桜井市) 日本最古の道 山の辺の道 

■今、奈良は「平城遷都1300年」の真っ最中。(写真と切手)


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特集|平城遷都1300年 日本最古の道・山の辺の道(天理市〜桜井市) 石上神宮
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 石上神宮(いそのかみじんぐう)は奈良県天理市にある神社。 式内社(名神大社)で、旧社格は官幣大社(現在は神社本庁の別表神社)。中世には二十二社の中七社のひとつとされた。
 崇神天皇7年(紀元前91年)、勅命により物部氏の伊香色雄命が現在地に遷し、「石上大神」として祀ったのが当社の創建である。
 別名、石上振神宮、石上坐布都御魂神社、石上布都御魂神社、石上布都大神社、石上神社、石上社、布留社、岩上大明神、布留大明神、等。
 尚、『日本書紀』に記された神宮は、伊勢神宮と石上神宮だけであり、その記述によれば、日本最古設立の神宮となる。 布都御魂大神は神体である布都御魂剣(ふつのみたまのつるぎ)に宿る神霊である。 布都御魂大神を主祭神とし、布留御魂大神、布都斯魂大神、宇摩志麻治命、五十瓊敷命(いにしきのみこと)、白河天皇、市川臣を配祀する。 石上神社は、大和朝廷の武器庫として知られ、物部氏(もののべうじ)ゆかりの日本最古の神社。
 所在地は、天理市布留町。 境内に入ると驚くのは多数の鶏と泣き声です。
 伊勢神宮にも居ました。 結構、神宮と鶏は相性が良い。  パワースポットです。


石上神宮 鳥居 と  石上神宮・楼門
石上神社  石上神社

 鳥居の前、向かって左に柿本人麻呂の歌碑がある。

 「未通女等之 袖振山乃 水垣之 久時従 憶寸吾者」(おとめらが そでふるやまの みずがきの ひさしきときゆ おもいきわれは)
 『布留山(石上神宮の背後の神山、転じて石上神宮境内)に瑞垣(拝殿背後の禁足地の垣)が出来た昔から あなたのことを思っていました。』

石上神宮拝殿(国宝)
石上神社



石上神宮 出雲建雄神社拝殿(国宝) 正安2年(1300年)頃の建立 と 石上神宮 国宝七支刀
石上神社 石上神社


 七支刀(ななつさやのたち、しちしとう)は、大王家に仕えた古代の豪族物部氏の武器庫であったとされる奈良県天理市の石上神宮に六叉の鉾(ろくさのほこ)として伝えられてきた鉄剣。
 全長74.8cm。 明治時代初期、当時の石上神宮大宮司菅政友が刀身に金象嵌銘文が施されていることを発見し、以来その銘文の解釈・判読を巡って論争が続いている。『日本書紀』には七枝刀との記述があり、4世紀に百済から倭へと贈られたものとされ、関連を指摘されている。刀身の両側から枝が3本ずつ互い違いに出ているため、実用的な武器としてではなく祭祀的な象徴として用いられたと考えられる。その裏表にあわせて61文字からなる銘文が金象嵌でほどこされている。しかし、鉄剣であるために錆による腐食がひどく、読み取れない字もある。 写真は境内の拓本(?)より
 [ 銘文 ]
 表・泰■四年十■月十六日丙午正陽造百錬■七支刀■辟百兵宜供供(異体字、尸二大)王■■■■作
 裏・先世(異体字、ロ人)来未有此刀百済■世■奇生聖(異体字、音又は晋の上に点)故為(異体字、尸二大)王旨造■■■世

 また、物部氏(もののべうじ)は河内国の哮峰(現・大阪府交野市か)にニニギノミコトよりも前に天孫降臨したとされるニギハヤヒミコトを祖先と伝えられる氏族。元々は兵器の製造・管理を主に管掌していたが、しだいに大伴氏とならぶ有力軍事氏族へと成長していった。
 五世紀代の皇位継承争いにおいて軍事的な活躍を見せ、雄略朝には最高執政官を輩出するようになった。



■平城遷都1300年 日本最古の道・山の辺の道(天理市〜桜井市) 石上神社 の詳細は、 「平城遷都1300年の切手と写真(天理市〜桜井市) 日本最古の道 山の辺の道 

■今、奈良は「平城遷都1300年」の真っ最中。(写真と切手)


「Kunioの世界の切手紹介と海外写真集」

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特集|平城遷都1300年関連 三重県名張市の美旗古墳群
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 三重県名張市や隣接する伊賀市には古墳が多数あります。
 名張市内の最古の遺物は一万年前の石器ですが、名張川の南岸、下川原遺跡からは縄文時代後期の集落が発見され、たくさんの土器とともに、東国の住居スタイルの柄鏡形住居も見つかっています。名張は古くから大和文化が流入し、各地に数多くの遺跡などが残っています。

美旗古墳群

 名張川支流の小波田川上流右岸の標高200mの台地上に、伊賀地方で最大規模の古墳群が営まれています。現存しているのは、5基の前方後円墳と横穴式石室を持つ円墳1基、方墳1基で、「カブト塚」・「矢羽塚」・「玉塚」などの方墳と円墳の多くは消滅しました。
 これらの古墳は地域を支配した有力者が、4〜6世紀にかけて造ったものと考えられています。
 「小塚」「毘沙門塚」「女郎塚」など、大小7基の古墳が点在しており、とりわけ「馬塚」は、美旗古墳群の中で最も大きな前方後円墳です。全長142m、後円部直径98m、前方部幅は100m、墳丘の全面は葺石(高塚の盛り土の丘を覆う石塊で、川原石や山石などが用いられる)で覆われています。前方と後円の接合部両側に造出があり、まわりに幅7mから広いところで25mの周濠が見られます。


■「平城遷都1300年関連 名張市の美旗古墳群」の詳細は、
 「平城遷都1300年の切手と写真 壬申の乱と西三重(名張市・伊賀市・津市)」で。

 該当頁では、壬申の乱や城之越遺跡(伊賀)に関する写真も掲載しています。

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